「対人トラブルを繰り返す人」の共通点や生い立ちに表れる「毒親」の存在【沼田和也】
『牧師、閉鎖病棟に入る。』著者・小さな教会の牧師の話
コミュニケーションがうまくできない理由はさまざまであるが、その一つが生い立ちによるものである。わたしはツイッターで「毒親」という言葉を知った。その言葉で語られる親は、必ずしもニュースになるような、子に殴る蹴る、あるいは性的な暴力を振るう親のことではない。むしろそういう親について語られる場合は、はっきりと虐待という言葉が遣われている。あえて毒親という語が遣われる場合、事情はもう少し複雑である。たしかに親は子に殴る蹴る、あるいは性的な暴力を振るわない。むしろ深い愛情をこめて育てている場合すらある。だが、その愛情が、子を自分の思い通りに育てたいという支配欲と混然一体だったりするのである。
「自分の親がそういう人だった」と語る人たちと、わたしは何人も出遭ってきた。その人たちのうち幾人かに、顕著な特徴がみられた。すなわち、「人から叱られはしないか、否定されないか」という、強い恐れをつねに抱くという特徴がみられたのである。もちろん、おだやかな家庭で育った人であっても、家族や友人から自分の考えを否定されるのはつらいものだ。しかしつらいなりに「自分も間違っていたのかな」とか、あるいは「今回ばかりは自分のほうが正しい」とか、自分で考える。しかしこの幾人かの人たちは、他人からわずかでも否定されると恐怖に凍り付いてしまい、もうそれ以上何も考えられないのである。
あるいは、親が子育てを事実上放棄している場合もあった。さらには疲れ果て、心も荒んだ親が、子に対して「あなたを産まなければよかった」と直接言ってしまったケースも、わたしは幾人もの人たちから聞かされた。その人たちはそれぞれの仕方で、強い自己否定的な感情を抱いていた。抱いていたというと、抱いたものを手放すことができそうな語感がある。だが実際はそうではない。「あなたは自分を大切にしていいんだよ」とか「あなたは尊い存在なんだよ」とわたしが言ってみたところで、微塵も揺らがないほどの自己否定なのである。その人の芯あるいは軸といったものと、「わたしは要らない存在」という実感とが、分かちがたくもつれあっている。あるいは、否定が自己にこびりついて剥がせない、そんな自己否定である。
このような親に育てられた人たちからさらに話を聞かせてもらっていると、これもまた悲しいことなのだが、毒親自身もまた、さらにその親から酷い育てられ方をしているケースが多かった。つまりわたしに話してくれている人からみて祖父あるいは祖母が、母または父に対して毒親であったと。祖父あるいは祖母が父あるいは母を徹底的に支配し、否定し、あるいは放棄し、追い詰めた。時が流れて父あるいは母もまた、その子を徹底的に支配し、否定し、あるいは放棄し、追い詰めたのである。そうやって育てられた人が今、わたしと出遭い、話を聞かせてくれるのだ。